先人に学ぶ「私の生き方」 与謝野晶子編

vol9_001今回は、株式会社ビジネスパスポート代表取締役社長で、日本を代表する女流歌人・与謝野晶子さんのお孫さんにあたる、与謝野肇様をお迎えして対談を行ないました。与謝野さんとは、私が開催する「新・看護管理者マネジメント塾」の講師として、「与謝野晶子さんの生涯」というお話をしていただきました。女性として、妻として、そして母としての三役を見事にこなした、与謝野晶子さんの情熱的で力強い生き方に感銘を受け、多くの女性の励みになると思い今回の対談にお越しいただきました。学びと刺激が満載のお話しですので、ぜひお楽しみください。

三澤:

与謝野晶子さんは、教科書にも載っている日本を代表する歌人なので、ご存知の方も多いと思います。女流歌人であり、私生活では11人のお子さんを育てた母でもあり、大正時代に日本で最初の男女共学校を設立された先進的な女性でもあったんですよね。
私も子どもが2人いて、現在、仕事をしながら妻として、母としての役割をこなすため、日々奮闘しています。
医療事務を目指す女性も、仕事と育児を両立させるために転職を考えるケースも多いので、仕事と家庭と、そして女としても手を抜かなかった晶子さんの生き方は、そういう女性たちの励みになると思っていたんです。

与謝野:

そうだったんですか。今日は孫として私なりに知っている晶子の厳しい人生と、その中での凄まじいまでの行動力、そういったエピソードをお伝えできればと思います。

三澤:

よろしくお願いします。それでは晶子さんの生い立ちから、お聞かせいただいてもよろしいですか?

与謝野:

vol9_002わかりました。
晶子は、堺(大阪)にある「駿河屋」という老舗の商家(和菓子)に生まれたお嬢様でした。躾(しつけ)やしきたりにとても厳しい家庭環境の中で育った人だったようです。 お父さんがいろいろな書物を持っていたこともあって、晶子は幼少期から「源氏物語」などを夜中まで夢中で読んでいる、そんな文学少女でもあったそうです。

三澤:

後に歌人として活躍する方ですから、やはり小さい頃から文学に興味を持たれていたんですね。
晶子さんというと、旦那さんの鉄幹さんとの情熱的な恋の話や、結婚後の苦労話なども有名ですが、2人の出会いはどのようなものだったのですか?

与謝野:

後に夫となる与謝野鉄幹との出会いですが、鉄幹は、明治の最初に、素直な心情を歌わない当時の歌道に疑問を感じていたようです。そして、素直な気持ちを歌いあげることが新しい日本の和歌の道であるという運動を興し、「明星」という雑誌を出版するなど、明治文学界の新しいリーダーであり、当時のスター的存在でした。
晶子はそんな鉄幹に憧れていたんですね。晶子は、20歳頃から和歌を投稿していたそうですが、憧れの鉄幹が大阪で歌会を開くということで、厳しい親の目を盗んでこっそり歌会に参加したそうです。それが2人の最初の出会いだったようです。
そんな鉄幹への憧れが、いつしか晶子の中で恋心に変わっていきました。そして、京都の清滝という静かな旅館で、2人がはじめて結ばれることになったんです。
晶子にとっては大変な幸せだったと思いますが、当時の鉄幹は雑誌「明星」を発刊するため、多額のお金を用立ててくれた恩人の娘さんと結婚していました。
世に言う不倫の関係ですから、晶子は悩みに悩むんですね。世間から後ろ指を指されるような関係ですが、それでも鉄幹への想いを抑えることができない。それで晶子は生家を捨て、鉄幹のいる東京の家に駆け込んだのです。

三澤:

今でこそ「不倫」という言葉を耳にする機会も増えましたけど、当時は相当に非難されたのでしょうね。

与謝野:

世の中のルールや規範はあっても、自分の心や望みを捨てることは出来ない。辛く厳しい現実が待っていようとも、それが私の人生であると決意し飛び込んでいく、それが晶子という人の勁さ(つよさ)だったんです。
晶子は、そういう彼女の魂のうめきというか、辛く苦しい心情を、素直に堂々と歌いあげることが新しい歌の道であると信じていたので、その時にも、素晴らしい歌の数々を残しております。
その後、やっとの思いで鉄幹と結婚できた晶子でしたが、世間の眼は物凄く厳しかったようです。さらには、結婚後の生活も大変な貧乏を強いられました。

三澤:

恋愛は障害があるほど燃えるなんて言いますが、恋愛と結婚ってまったく違うんですよね。恋焦がれた愛が実り、現実の生活になると実際は決して楽しいことばかりではなく、苦しさも待っているものなんですよね。

与謝野:

vol9_003確かにそうですね。ただし、そういった苦しさに立ち向かうことで、晶子は歌人として本領を発揮していくことができました。
鉄幹のサポートもあり、その頃から晶子はよい歌をどんどん発表していきました。それに、歌に対する情熱もぐっと高まっていったんです。そうして、晶子は歌人としてスターになっていくんですね。
鉄幹は、自分が見込んだ晶子がスターになっていくことが嬉しかったし、晶子は最愛の人と一緒にいられて、おまけに歌人としても大成していく。苦難はあっても、2人にとっては幸せな結婚生活でした。
ところが、晶子の人気が高まるのに反して、鉄幹の人気は低迷していったのです。妻としては愛していても、鉄幹は歌人としての晶子に嫉妬を募らせるんですね。
晶子にとっても、夫の収入が減り、貧乏な暮らしを強いられるので、大変苦労させられました。また、そんな苦労にも増して、憧れの歌人(鉄幹)が失意に落ちていく様を見ているのは、大変つらかったのだと思います。

三澤:

大好きな人であり、夫でもあり、尊敬する存在でもあった鉄幹さんへの想いという、複雑なバランスの中で葛藤する晶子さんの心情は、同じ女性としてわかる気がします。

与謝野:

でも、そんな苦しさの中でも明るく耐えようとするのが晶子という人間なのです。貧しい生活に愚痴を言う人もいる。けれど、苦労を楽しむことが私の生き方だと、晶子は歌でも詠んでいるんです。
彼女がこういう歌を詠めたのは、苦しみを乗り越えたところに本当の楽しみがあることを知っていたからでしょうね。

三澤:

苦しみを取り込んで、それを楽しみに換える。その力強さというか、ポジティブな考え方は、女性が社会に出て生きていくために必要なのだと思います。男性に守ってもらうばかりじゃなく、男性を支えてあげるぐらいのたくましさを身につけないといけませんね。

与謝野:

昨今は苦労を強いられると、すぐに相手の責任にしてしまう人が増えているように感じるんです。でも、晶子はそうではなかった。人より辛い状況にありながら、自分自身を信じて、難局を克服していくことをむしろ楽しみとしようという強さがあったんでしょうね。

三澤:

苦難を解決する力というか、タフさというか、そういうものを私たち現代人は失いつつあるんでしょうね。昔の人が持っていた強さを、私たちも取り戻さなければいけないですね。

与謝野:

心の持ちようだと思うんです。苦難が降りかかってきた時に、「よし。これは解決しよう」と思えるかどうか、それが非常に大切なんです。嫌なことが降りかかってきた現実を、人の責任にしてしまうと、どんどんネガティブな思考になってしまうのだと思います。
そうではなくて、苦労している人は世の中にたくさんいる。自分の苦労はまだマシだと思える心のゆとり、それが人生を切り拓く強さになるんでしょうね。
目の前に壁が立ち塞がったら、逃げずにむしろ全身全霊で壁に立ち向かうことです。そうすると、すっと壁の向こうに抜け出て、後で振り返ると壁なんかもともと無かったのだと気づくものです。

三澤:

vol9_004本当にそう思います。余裕がなくなると、思考が悪い方向に働いてしまう、「こうした方がいいんじゃないか」と思っても、なかなか一歩が踏み出せなくなったりするんですよね。

与謝野:

そうですね。とくに晶子という人は、女性としての強さだけじゃなく行動力もすごかったんです。
そんな晶子を象徴するエピソードがあります。歌人として失意に暮れる鉄幹を見ていた晶子は、「このままでは、鉄幹の歌人としての才能が死んでしまう」そう考えたのでしょう、鉄幹をひとりフランスに旅立たせます。
当時はフランスに渡るのにとても高いお金が必要でした。貧乏で苦労していた晶子でしたが、執筆や文筆の仕事で必死にお金を貯め、それでも足りない分は夏目漱石や各方面の友人から寄付を募り、どうにかして鉄幹をパリに送り出すためのお金をかき集めたんですね。

三澤:

失意の夫のために、必死でお金を貯めて旅に行かせるなんて、私にはできないと思います。でも、それを実行してしまう晶子さんは、それだけ鉄幹さんの才能を信じていたんですね。

与謝野:

そうなんです。晶子はやはり鉄幹が大好きだったんですね。妻として家庭を守る、そして母として子どもたちを守る。そんな強さを持っていた晶子ですが、同時に女としての部分も、彼女の中にはしっかりとあったのでしょうね。
ですから、鉄幹がパリに旅立ってしまうと、途端に彼のことが恋しくなってしまい、子どもを置いて自分も女ひとりでシベリア鉄道に乗ってパリに行ってしまうのです。

三澤:

お子さんを置いて行かれたんですか?

与謝野:

お手伝いさんか誰かに子どもの面倒を頼んだんでしょうね。
愛する人を追ってパリまで行き、向こうで2人の時間を楽しむんです。でも、今度は母としての思いがふつふつと大きくなってきて、東京に置いてきた子どものことが気になってしまう。それで晶子は、1カ月ぐらいで東京に帰ってしまうんです。
つまり晶子という人は、女として鉄幹を強く愛していた反面、母として子どもたちへの愛情も無視できなかったのでしょうね。

三澤:

女であり妻である。それと同時に、母親でもあったわけですよね。晶子さんは、それぞれの立場で自分自身に正直に、情熱的に生きたわけで、その生き方は同じ女性として私も非常に尊敬するところです。

与謝野:

当時の日本は、女性は男性を補佐する立場であって、けっして主役になってはいけない、そんな風潮があったんです。ですが、晶子は女性の立場から、正しいと思うこと、美しいと思えることを、自身の生き方や歌として主張したんですね。

三澤:

与謝野晶子という女性の”感性”と”行動力”は、「すごい!」のひと言に尽きます。明治時代、こんなにたくましい女性が日本にいたとは。できることなら、会ってお話をうかがいたかったです。

与謝野:

それからもうひとつ、晶子が女性の立場から強く訴えたことがあります。それは、「子どもを産むことの尊さ」です。
当時は「女性が子どもを産むのは当たり前」、そんな風潮があったったんです。でも晶子は「子どもを産むことは大変に尊いことだ」ということを強く主張したんです。

『その母の骨ことごとく砕かるる 呵責の中に健き子の啼く』

という晶子の歌があるのですが、子どもを産むということは、骨が砕かれるような苦しみがあるんだということを表現しているんですね。
もうひとつ、晶子の作品に『産屋物語』というのがあるのですが、この作品の中でも晶子は、「女が子を産むというこの大役に勝るものはない」、そんなふうにはっきりと女性の立場を主張しています。そんな大役をまかされている女性が、男性よりも低く見られていることが腹立たしく許せないと言っているんです。

三澤:

私も2度の出産を経験して、本当に大変な仕事だと実感しました。命を落としてしまう危険だってあるのに、産んで当たり前なんて言われるのは納得いかないですよね、女性として。だからすごく共感できます、この晶子さんの主張は。

与謝野:

でも、当時の日本は、女性がこうした主張を堂々と言える環境じゃなかったんです。それをはっきり言えたのは、やはり晶子が人間としての強さを持っていたからだと思います。 世の中に向けて、自分の考えを堂々と主張できる強さ、これはまさしく晶子の真骨頂でしょうね。

三澤:

出産の大変さって、経験した人じゃないとわからないんですよね。私も出産するまでは、子どもの大切さや育児の大変さとか、そういうことに関心が持てなかったんです。出産を経験する前は、子どもを産むということが、これほど尊いことだと感じる意識もなかった気がします。
でも、実際に子どもを産んでみると、晶子さんの言っていることが胸にスッと入ってきて共感できるんです。経験してはじめて真意が深く入ってくるというか、本当の意味で理解できるのかもしれませんね。

与謝野:

晶子は思想家ではあるけれど、政治活動家ではない。歌人や詩人として、作品で自分の思いを主張したんですね。
正直な気持ちや内面の葛藤、普通なら恥ずかしくて言えないことを、めくるめく表現力で素直に高らかに主張する。そうすることが芸術だと考えていたのでしょう。
世の中の規範とか非難とか、そういうものにただ従ってしまうのではなく、「自分をしっかり持って生きることの大切さ」、ということを伝えようとしていたのだと思います。

三澤:

私は以前から、晶子さんの作品が世代を超えて語り継がれているのはどうしてだろうって思っていたのですが、きっと、現代人に問いかけていることがあるからではないかと思うんです。
与謝野さんは晶子さんのお孫さんとして、現代人に何を問いかけているのだと思いますか?

与謝野:

それは、「行動」と「勇気」だと思います。
人間は誰でも失敗することがあるのですが、それを恐れてはいけないと。とくに若い人は失敗してもやり直しがききますからね。だから失敗を恐れないことの大切さを世に問うていたんでしょうね。
私は60代になって、ベンチャー企業を設立しましたが、まだまだやれると思っています。
若い人はもっともっと挑戦すべきだと思います。挑戦して、失敗して、そこから学べばいい。一度失敗すると、もう二度とこんなことはやらないぞと教えられますから、それが人間の成長につながっていくんですよね。本当に苦労して、目標を達成した時の喜びは、挑戦しなければ味わえないですから。
この世に産まれてきたからには、苦しみを克服できた時の達成感を味わってもらいたい、晶子の作品はそういった心の昂りを歌っているんだと思います。
ですから、失敗を恐れない「行動」と「勇気」、これを忘れないようにして欲しいということを問いかけているんでしょうね。
それからもうひとつ、晶子が言いたかったことは、「一度きりの人生をどう生きるのか?」ということですね。自分は何をやりたいのか。そのやりたいことを追いかけることが非常に重要なんです。
晶子の場合は、鉄幹を愛し、歌を愛し、自分を大成させたいという強い夢を持っていた。それを実現するために、あらゆる困難を乗り越えて挑戦したわけです。
人から与えられたものを受け取っているだけの人生じゃなく、自分で人生を切り拓くことの大切さを言いたかったんだと思います。

三澤:

「私にもきっと何かできるはず」そう思ってはいるのだけれど、その「何か」が見つからなくて、悩んだり迷ったりしている女性はとても多いんです。それを見つけるための一歩として、医療事務や介護事務のお仕事に希望を見出す方もいらっしゃるんです。
だから、ご自身の環境が整っていなくても、少しずつでいいから夢をあきらめずに、自分を追いかけていくという、晶子さんの訴えは本当に大切なことだと思います。

与謝野:

医療事務を目指している、もしくは従事している人なら、その仕事を表面的に捉えるのではなくて、医療事務という仕事の中に必ず楽しさがある。それはいずれ見つかるんだと、そう考えたほうがいいでしょうね。
どんな事にも必ず楽しみがあるんです。でも、自分が本気で求めていないと、その楽しみは目の前に姿を現してくれない。楽しさや達成感とか、そうしたよい部分は、苦労してみてはじめてわかるものなんですよね。
どんな仕事にも必ず意義と楽しみがある。それはなぜかと言うと、世の中が必要としているからです。世の中に役立っている仕事には、必ず楽しみと意義があるのです。
でも、本人がアンテナを張っていないと、キャッチできずに通り過ぎてしまう。それを見過ごさずに感じ取ることができれば、楽しみと意義がストンと腹落ちする。そうすると、仕事をがんばっていこうという気持ちにもなるんですよね。

三澤:

そうですね。私たち女性は、自分を輝かせるものは何だろうと、不安を感じたりするんです。人によって学びであったり仕事であったりしますが、その「何か」が見つからないと、どうしたらよいのか迷ってしまう。
だから、迷ってしまった時に、自分を信じて進んで行ける強さや勇気、それに行動力が必要なんですよね。
女性・妻・母という三役を見事にこなした与謝野晶子さんから、「強さ」と「行動力」と「勇気」、私たちはそのすべてを学んで、実践していかなければいけないと感じました。

■与謝野肇 プロフィール
株式会社ビジネスパスポート 代表取締役社長

1966年、東京大学法学部卒業。大学時代はボート部に所属。
同年、(株)日本興業銀行入行。1995年、同行シンガポール支店長―取締役を歴任の上、1996年興銀インベストメント社長に就任、ベンチャーキャピタリストとして活躍。
2004年、自らも(株)ビジネスパスポートというベンチャー企業を設立。現在に至る。

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